>>>Spoiler Warningーーーネタバレ注意<<<
※公開初日に急いでまとめたのでいささか粗い部分もあります。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は2024年10月11日に公開された映画。傑作にして問題作『ジョーカー』の続編であり、前作が抱える問題や社会に対して与えた影響を精算する(あるいは贖罪する)ような怪作。劇中の裁判で主人公のアーサーを裁く事自体が、本作をもって前作を裁くようでもある。劇中のジョーカーを信奉する暴徒を、現実に発生してしまった「ジョーカーに自己投影し、前作を自らを肯定してくれた映画だと賛美して暴走した人々」と重ねたメタフィクションのような側面も持ち合わせている。2時間の映画を通して「僕達が作ったジョーカー=アーサーはあなた達が思うような人間ではない」ということをひたすら丁寧に説明している。最初の裁判のシーンで、その内容などには目もくれず、ただただ自分が抱いた女=リー(レディ・ガガ)を探し、近くに置こうとする様などをはじめ、細かな描写の積み重ねで見事にアーサーの矮小さを演出している。ミュージカルやアートのようなシーン・カットが多用されているが、その実、肩の力を抜いて見ても理解できるように作られたかなり説明的な映画でもあるように思う。「本作を見て悪のカリスマとして覚醒するジョーカーが見たかったのだと言っている人=ラストシーンでアーサーを裁判所から助け出し、もっと暴力をと求める信奉者」「本作を見てアーサーに失望した人=最後にアーサーを見捨てたリー」といったように、前作のジョーカーに陶酔・賛美したであろう人々が本作に対して抱くであろう感情そのものをメタ構造として明示的に落とし込んでいるのも面白い。
本作は賛否両論、ないしは否の多い作品だ。否である人物というのは大きく2パターンに見える。1つは、前作のジョーカーの信奉者であり、彼が続編で悪のカリスマとして破竹の活躍をすることを期待していた人々。もう一つは、前作と本作でアーサーのイメージが変化しなかった(監督の意図通りの解釈をした)上で、前作が明示的にアーサーの是非について示さなかったことにあまり問題意識を持っていなかった人々(見た限りでは批評家に多い)だろう。実際、本作は何一つ新しいことはやっていない。前作で描いた内容の”補強””誤解を解くこと”に終始している。言ってしまえば、「アーサーはしょうもない人間です」の一言を公式から発信する為に作られた一作と言っても良い。それ故に、特に疑いなく監督の意図通りに前作解釈した上で、現実社会に発生したジョーカーシンパについて「そういう人もいるのか」程度、あるいは認識していない人にとっては、なんかミュージカルにして間延びさせただけで前作と言ってることやってること同じじゃん、となるのだろう。
しかし、僕としては「作品が現実社会に与えた影響」を軽視せずに、続編という形でそこに責任ある回答をしたことは監督のトッド・フィリップス氏並びにこれをGOしたワーナーに拍手を送りたい。アーサーを演じる主演のホアキン・フェニックス氏は相変わらず圧巻の演技。レディ・ガガ氏が圧倒的な歌唱力と演技としての歌唱力を使い分けて演じたリー(ハーレイ・クインゼル)は引き込まれる魅力を放つ見事なファム・ファタールだった。確かにミュージカル過多だったり、やや冗長であったりする部分はあるが、本作が示したものに比すれば些末なものだろう。
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